金網デスマッチ

20023.10 update

 

約2.5Mの金網が張り巡らされる。

 

 

 昭和世代のプロレス・ファンが「デスマッチ」と聴いてまず思い浮かべるのは、なんと言っても金網デスマッチであろう。45年に大阪で木村-ドクラー・デス戦で初めてお目見えして以来、国際プロレスの名物となった。ルールはさまざまで、日本では3フォールの後10カウント。時にはフォールなして10カウントのみ、3カウントの後、さらいに10カウント、その後さらに20カウントというのもあった。本場アメリカではKOルールでなく、金網からエスケープしたほうが勝ちと言うルールが多く、脱出しようとする相手を阻止するという攻防が見所となっていた。このルールの違いが元で大事件となったのがブル&クラと草津&小林組の金網タッグマッチ。KKコンビをKOしたブル&クラは悠々と金網から脱出し、控え室に帰ってしまった。納得しないファンはブル&クラの試合放棄を取り違えて大騒ぎ。暴動寸前にまで発展し、次回無料興行を開催すると吉原社長が客に頭を下げるという自体を巻き起こしたのであった。

 筆者が金網デスマッチときいて思い浮かべるのはなんと言ってもジプシー・ジョーである。金網によじ登って投下するニードロップも迫力があったが、それを狙ったもののバランスを崩して自爆する時のすさまじい転落が忘れられない。ジョーならでわの素晴らしい受身であった。アメリカでは79年にヘクター・ゲレロがロスの殿堂オリンピック・オーデトリアムでのブル・ラモスとのケージマッチで金網てっぺん(約3M)から決死のダイビング・ボディ・アタック(ゲレロ・ロケット)を繰り出している。

 

   
金網といえばジョーの自爆ダイブ!   馬場もロスで経験!   ヘクター決死のダイブ!

  

 日本では邪道といわれた金網デスマッチも海外では遺恨試合の決着戦として盛んに行われていた。日本プロレスのエース ジャイアント馬場もジョン・トロスのミステリアス・パートナーとして金網タッグマッチに登場し、キンジ渋谷、マサ斎藤組と対決している。また覆面禁止、女子プロレス禁止という規制の多かったMSGでも、サンマルチノとコロフの決着戦として’75年12月15日についに金網デスマッチを解禁。サンマルチノがコロフをKOし、ニュヨークっ子を大いにわかせたのである。

 

 

   
血まみれになりつつも鉄柵に打ち付ける。   MSGでも人気を呼んだ。  

海外では脱出すれば勝ち

 

 基本的にデスマッチとは遺恨が深まったレスラーの決着戦として行われるべきものであるが、末期の国際プロレスはプロモーターに請われるまま、何の因縁もないレスラーで金網デスマッチを強行、し金網の乱発はプロレス界の秩序を乱すという批判を浴びた。批判を受けながらもデスマッチ路線を貫いた国際プロレスであったが56年に寂しくその幕を閉じ、金網デスマッチは日本マット界から一時姿を消すのであった。