2001年表紙展示室

 

 

  2001年1月

ジャイアント馬場&アントニオ猪木

馬場と猪木・・・力道山亡き後の日本プロレス界を支えつづけた両巨頭。筆者の世代はいがみ合う彼らの姿しか知らないが、かつては日本最強のタッグ・コンビといわれたBI砲を組んでいた。リアルタイムで見たかった!肩を抱き合い観衆に手を挙げて応えるこの写真には人生の不可思議を思うと感動すら覚える。

     
  2001年2月

ドリー・ファンク・ジュニア

実は平成の大技を連発するスタイルを最初に作り上げたのは、NWA世界王者時代のドリー・ファンク・ジュニアではないかと思う。猪木戦のビデオでは相手とガンガン大技で追い込む彼の姿が映し出されている。しかし王座転落後はじっくり攻め込みスピニング・トーホールドかブロンコ・スープレックスで仕留めることが多くなった。やはり当時の世界王座というものはレスラーのファイティングスタイルに愛敬を与えるほどの重みが合ったのだ。

     
  2001年3月

グレート草津

昭和プロレスファンから彼への賛辞というのはあまり聞かない。やはり温室育ちのエリートということや、プロレスに対する生半可な姿勢が反感を買うのであろうか?坂口征二に間違えられることが多かったのも、ファンに強烈なインパクトを残せなかった証拠ではないだろうか?

     
  2001年4月

ラッシャー木村

3月に登場した草津とは対照的に、木村は正真正銘のたたき上げ。地道な努力で国際プロのエースをつかんだ忍耐の男であった。それは彼の試合振りにも表れており、外人悪役レスラーの攻撃を受けるだけ受けきって、堪忍袋の緒を切るという、力道山を髣髴とさせるスタイルであった。しかし彼の努力も空しく、国際プロレスは崩壊してしまうのであった。

     
  2001年5月

スパイロス・アリオン

「まだ見ぬ強豪」というのは死語になってしまったが、70年代初頭ミル・マスカラスを抑えて、呼びたいレスラーの1位になったのが、このアリオンであった。当時はサンマルチノ一家の最有望株で大いに期待を集めたが、やはりニューヨークのレスラーに多いでくの坊で、同時に来日したマスカラスと違いファンを大いに失望させたのであった。

     
  2001年6月

バディ・キラー・オースチン

リング上で本当にレスラーを殺してしまったのは、このレスラーだけだといわれている。恐怖のパイル・ドライバーは全米各地で禁じ手となり、オースティンは行き場を失い、酒におぼれ最後は乞食同然の生活を送り、グアムで人知れず死んだという。まさにのろわれたレスラーであった。

     
  2001年7月

イワン・プトスキー

このレスラーは幻のままとうとう日本にはやってこなかった。しかし海外でのファイト内容を雑誌で読むと、どうやら日本向きではなかったようだ。同型のイゴール・ボディック(グレート・イゴール)が、日本ではさっぱりだったのと同様、彼も評判を落としたに違いない。この後肉体改造を行い、マッチョマンに変身、MSGタッグにアンドレ・ザ・ジャイアントとのコンビで来日が決定したが直前でキャンセルしている。

     
  2001年8月

ディック・ザ・ブルーザー

昭和40年代のプロレスファンの中には、彼を最強と唱える方が多い。当時のビデオを見てもその暴れっぷりは桁外れ。実際の身長は180センチないといわれているが、そんなことを感じさせない存在感。はやり一流レスラーは、でっかく見えるものである。

     
  2001年9月

イワン・コロフ

サンマルチノを破ったことで名をはせ、その後も各地で活躍したが、なぜかこのレスラーには一流半、2流というレッテルがついて回った。やはりファイトぶりが単調なためなのだろうか?日本では一時期減量に挑み、ジュニア王者の藤波にKOされたときの印象がマイナスになっているのかもしれない。

     
  2001年10月

ルーク・グラハム

日本ではまったくダメだったが、アメリカでは一流に名を連ねていたのがこの男。豊登とのWWA世界タイトル統一戦で、日本でもその名を知られる存在となったが、来日するたびに黒星を積み重ねていったというダメレスラー。しかし、昭和のプロレス史には、しっかりをの名を刻んでいる。

     
  2001年11月

バッドマン・スタン・ハンセン

全日本プロレスへの初来日では中堅レスラーと五分かそれより悪い成績しか残せなかった男が、半年もしないうちにニューヨークの桧舞台に登場し、サンマルチノを病院送りにしてしまい当時のファンは大いに驚いたという。それに目をつけ彼を大スターに育て上げたのは、やはり新日本プロレスのプロデュース能力が以下に長けていたかを証明している。

     
  2001年12月

カール・ゴッチ&レーン・ゴルト

腰に巻いているのはWWWF世界タッグのベルト。ゴルト(レネ・グレイ)という男は、ゴッチやアンドレのような気むずかし屋のパートナーを勤めるのが得意だったようだ。当時ゴッチはWWWFではフランス人のピエール・レマリンを名乗っていた。正確にはレマリン&グーレのフランスコンビである。