2000年表紙展示室
2000年1月 バロン・フォン・ラシク VS ラッシャー木村 当時、幻の強豪の一人といわれたラシクとストロング小林の影に隠れナンバー・2に甘んじていたラッシャー木村との熱戦。 悪党然としたラシクの表情が素晴らしい。 |
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2000年2月 エル・ソリタリオ ライバルのミル・マスカラスとともに初来日を果した孤狼仮面エル・ソリタリオ。当時の呼んで欲しい外人レスラーの人気投票ではザ・シークに次いで2位の票を集めた。 |
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2000年3月 ブルーノ・サンマルチノ ジャイアント馬場の親友であり、ライバルであったWWWF世界選手権者サンマルチノ。馬場は彼を稀代の大レスラーと絶賛し、猪木は彼を木偶の坊と酷評した。サンマルチノの評価で、馬場と猪木のプロレス観の違いがおわかり頂けるだろう。 |
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2000年4月 ジョニー・バレンタイン 恥ずかしながら私は彼のファイトを生で見た事がない。私がプロレス・ファンになった頃には、交通事故により下半身不髄と言う重傷を負って現役を引退していたためである。 だから私は彼のファイトを写真でしか見た事がないのだが、彼ほど写真を見るものに想像力を働かせるレスラーは少なかろう。私の中での彼は残忍で、冷酷なラフ・ファイターである。東京プロレスでの猪木との映像は残っていないが、この時の来日が彼の魅力が一番出ていたように聞く。タイムマシーンを一度だけ使っていいと言うなら、ぜひ二人の試合を見に行きたいものだ。 |
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2000年5月 ザ・シーク 日本では長らく幻の強豪だった怪奇派レスラー。初来日では因縁の坂口征二のUN選手権に挑戦、一度はタイトルを奪ったもののすぐに取り返されて帰国してしまう。 |
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2000年6月 ダスティ・ローデス ショーマン・アメリカン・プロレスの権化のような男。オーバーなゼスチャーは日本では受け入れられない事が多いが昭和50年代中半以降新日本プロに登場してからはアメリカとのそれと違わぬ人気を得た。ストロング派を宣言していた猪木が何故彼を重用したのか?単なる客寄せパンダだったのだろうか? |
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2000年7月 アーニー・ラッド 期待外れと言われた外人レスラーは多いが、アーニー・ラッドなどはその典型であろう。第1回NWAタッグ・リーグ戦ではエース格で来日するが、ほぼ約束されていた決勝戦に進出できずじまい。その上馬場とのシングルでは10分も持たすに負けている。しかしアメリカでは各地の主要タイトルを獲得し、常にランキングの上位にいたのだからふしぎな話である。 |
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2000年8月 ビクター・リベラ 「黒い猪木」と言われ、42年の来日時にゴッチが日本プロの若手のために開いたゴッチ教室に猪木とともに自ら参加、猪木のライバルとして注目されたテクニシャンだった。当時のインタビューで「僕みたいなタイプは腹が出たら駄目だ」といいながら80年代に入ると、腹が出てきて2流の悪党レスラーに成り下がってしまった。正統派レスラーの悲しい末路を具現してしまった選手である。 |
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2000年9月 スカル・マーフィー&フレッド・ブラッシー 本来ならマーフィーと言えばバーナードであるが、マーフィー&ブラッシーと言うコンビは日本でしか実現されなかった夢の?悪役コンビである。こういう個性派のレスラーは70年代に入ると激減する。今のアメプロがキャラクター豊富と言ってもそれは、コスチュームなどによって演出されたものであり、このふたりのように生身の迫力と言うものは全くない。 |
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2000年10月 ドリー・ディクソン 黒人レスラーの多くは「黒い弾丸」と言うニックネームを良く付けられたが、このディクソンも黒い弾丸と呼ばれた。国際、新日本と参加しているが、彼の映像は残念ながら残っていない。筆者にとっての幻の強豪である。 |
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2000年11月 ストロング小林 ストロング小林も波乱に富んだレスラー人生を送った一人である。日本人初の覆面レスラー、和製サンマルチノといわれた国際プロのエース時代、マッチメイクへの不満で脱退、馬場、猪木への挑戦、猪木との昭和の巌流島と呼ばれた名勝負、坂口との北米タッグ、王座転落、メーンエベンターからの転落、挫折・・・結局彼のハイライトは猪木との一騎打ちであった。 |
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2000年12月 スーパースター・ビリー・グラハム これほど見た目と試合内容のギャップの大きいレスラーは少ない。人目見ると素晴らしい肉体に目を奪われる。彼がスピーディーなレスリングをしていたら20世紀を代表するレスラーになれたであろうが、レスリングはまるで駄目。やたら声を上げてのパンチ、キックとベアハッグしかないデクの棒であった。しかし、彼が一時代を築いたレスラーであることは事実である。 |