昭和プロレス秘宝館

  

国際プロレス 昭和44年 ビッグ・ウィンター・シリーズ パンフ

2003.3.2update

 

  

 好評のパンフレット・シリーズ。今回は国際プロレスの昭和44年1月の「ビッグ・ウィンター・シリーズ」のパンフを紹介します。表紙はイアン・キャンベルを担ぎ上げる豊登。

 まず、このパンフにTBSプロデューサーの森忠大氏の「ファイブ・エース確立え!(ママ)」というあいさつ文を印刷した紙がはさみこまれている。以下抜粋。

「・・・予想した線よりは、TV放送の面においては、はるかに好成績を収め、視聴率的には、25〜30パーセントをコンスタントにマークし、全放送番組のゴールデン・アワー視聴率ベストテンに常にがんばっていたことは、皆様ご承知の通りであります。当初、我々が計画した九ヶ年間計画の今年は2年目に突入するわけであります。ベテラン豊登のカムバック、サンダー杉山の安定した試合運び、グレート草津の見事な躍進で、一応、タレント面ではスリー・エースがスターダムにのし上がる事に成功しました。
 今年はこれ等スリー・エースのより以上の飛躍に加え、ファンの公募に依って、新しくリングネームの決まった、ラッシャー木村、ストロング小林の期待の両新鋭が期待通り、スターダムに躍進できれば、我々の最初の三カ年計画のファイブ・エース時代が名実ともに到来するわけです。・・・」

森氏の書いているように木村、小林(渡英中)の台頭で、日本側も充実。これにロビンソンが日本側に加わって、国際プロレスは黄金期に突入するのだが、観客動員は相変わらず苦戦していたようである。

 前述のようにこのシリーズからロビンソンが日本側として登場。IWA世界王座を獲得したこともあり「欧州最強の男」から「世界最強の男」に肩書きが変わった。開幕戦で草津、第12戦でチーフ・ホワイト・ウルフの挑戦を受けてIWA世界選手権の防衛に成功している。

 

 

 続いては後のシーク・アドナン・アル・ケーシーの前身であるビリー・ホワイト・ウルフが登場。当時はケージー時代からは想像も出来ない技巧派の本格的レスラーだったようだ。学生時代は1957、58年の二年連続でAAU(全米体育教会)のアマレス・フリースタイルのライト・ヘビー級で優勝しているのだからこれも納得できる。インディアン・ギミックではこれが最後の来日で、この後新日本プロレスにシーク・オヴ・シークス・バグダッドというやたら長い名前のイラン人ギミックで登場している。経歴を見ると父親がイラン人、母親がチョクトー族の酋長の娘というから、どちらのギミックも決してインチキではない。

 ウルフの隣に紹介されているのはイギリスのジョー・コルネリウス。「恐怖のゴールドマン」というニックネームが付いているが、その由来は登場時に黄金のマントを羽織って登場していたからだそうである。日本でもこのマントをまとって登場したのだろうか?

 続いてはヨーロッパ・ミッド・ヘビー級チャンピオンのマイク・マリノが登場。このシリーズでは田中忠治を相手に欧州ミッド・ヘビー級選手権を防衛したが、IWA世界ミッド・ヘビー級王座決定戦では田中に敗退している。しかしその実力差は雲泥の差だったという。これが唯一の来日。さらにヨーロッパ・タッグ王者コンビのアンドレ・ボレーとロベルト・ガステルが紹介されているが、このヨーロッパ・タッグというのは実在したかどうかは不明。このタイトルは草津、木村組に奪取されている。この両者の日本でのファイト写真はほとんど残っていない。

 

 

  

 続いては日本陣営の紹介。ここでも「ビッグ・スリー」をアピール。当時は豊登と杉山がTWWA世界タッグ選手権を保持。草津はグレートブリテン西部、南部選手権者として紹介されている。草津は欧州タッグを獲得したので三冠王となる。続いてはラッシャー木村が紹介されているが当時はまだ黒のロングタイツは着用していなかった。続いて、田中忠治、マンモス鈴木が紹介されている。ページの下段ではストロング小林の近況を報告。「日本男児として、また日本レスラーの代表として恥じないように頑張る」とメッセージを寄せている。当時既にロイヤルアルバート・ホールのメインエベントを務めていたようだ。

  

 

  

 そして最後のページでは若手が紹介されている。メンバーは大剛鉄之助、井上円蔵、大磯武、寺西勇、村崎小助、藤井東助、佐野東八の7名。そしてレフェリーはなんと阿部修ただ一人。若手が臨時でレフェリーでもしていたのだろうか?

資料提供:福岡のN様