柔道界では無敗を誇り「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた神様的存在。ブラジル遠征ではエリオ・グレーシーに勝利した。プロ柔道の旗揚げに失敗しアメリカでプロレスに転向後、昭和29年5月に熊本で国際プロレス団を旗揚げ。力道山との越境コンビでシャープ兄弟との名勝負を繰り広げるが、同年12月に力道山に挑戦。しかし結果は惨敗。この試合は事前に木村からの八百長申し込みがあったことが発覚し、プロレス人気は一時凋落した。
昭和31年には新兵器の猫手チョップを駆使し、ラウル・ロメロからメキシコ・ジュニアヘビー級選手権を獲得するが、興業的には失敗し、旧国際プロは解散。再起を図りアジア・プロを設立するが、旗揚げ前にメキシコに旅立ち、メキシコで試合に出場したが、日本ではそのままプロレスを廃業。帰国後は拓殖大学柔道部を指導した。
1993年4月18日に逝去。2012年にその生涯を描いた「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」がベストセラーとなり再評価を受けている。 |