日本では「エル・アニーバル」と表記されていたが、正確にはエルは付かない。アニバルというリングネームはハンニバル将軍から取った。「1970年に19歳でメキシコ中部ライトヘビー級チャンピオンを獲得した天才少年レスラー」と当時の「月刊ゴング」で紹介されているが、1940年生まれなので、19歳と言うのは間違いだったようである。
初来日は10年以上後で、昭和56年3月の「WWFビッグ・ファイト・シリーズ」中に新日本プロレスが開催したWWFライト・ヘビー級王座決定トーナメントに参加した時だった。同じ年の8月には全日本プロレスに登場、ドクトル・ワグナーとのコンビで「PWFタッグ・リーグ戦」に参加。シリーズ中にはなんとジャイアント馬場ともシングルで対戦している。日本では真価を発揮できなかったが、必殺技の風車式背骨折り(ケブラドーラ・コンヒーロ)は見ごたえがあった。
ナショナル、NWA世界、UWA世界の各ミドル級、UWA世界J・L・ヘビー級など獲得タイトルは多い。1991年にマスカラ・アニョ・ドス・ミルに破れマスクを剥がされている。1994年脳腫瘍のため死亡。 |